春夏秋冬特別企画ロングインタビュー
島の釣り人に聞く!

濱口一人さん
-PartⅧ-


---プロフィール---
濱口一人(はまぐちかずひと)さん

1957年大島生まれ。18歳頃から本格的に大島での磯釣を始める。イシダイ釣りを皮切りに、様々なターゲットに目標を定めクリアを果たしていく。磯からのルアー釣りで61㎏のクロマグロを釣り上げたことで知らないものはいないほどの大島屈指の釣り人である。
(株)濱口建設社長。現在の目標は船釣りで300㎏超のマグロを釣り上げること。

丸市の小笠原釣行の話

――私は、シマアジのデカいやつは小笠原でしか釣ったことがないんですよ。ルアーで。
ルアーで?ルアーに喰ってくるの?シマアジが?

――うん。カンパチがメインのジギングを船でやったんですけど。それと、クチジロ狙いを磯で。大島のイシダイ釣りの道具をそのまま持って行ったら、船長さんにこんなので釣れると思っているの?クチジロ、なめているんじゃない?っていわれて。私が持って行ったのは18号の道糸を巻いたリールだったんですけど、30号が常識だよって。ハリもひねりのネムリじゃ使い物になんないよっていわれて。結局、船長さんにリールを、たまたま同乗した方から仕掛けを譲り受けて、釣りをしたんです。最初は風の関係で本命場所には入れなくって大したことはなかったんですが、最終日に本命場所に入ったら中りが出まくったんですよ。そこは、足下50mっていう凄い場所で、仕掛けを投入するたびに中りが出るんですけど、でも獲れないんですよ。船長さんの指示は、ある程度ドラグを緩めておいて魚を沖に走らせてからやり取りして勝負!っていうことだったんですが、沖に走るどころじゃないんですよね。中りが出て竿先が海中に突っ込んでいったと思ったら、いきなり竿が跳ね上がって来て、回収してみると切られていたり、竿先が海中に突っ込んだまま、止まったままで魚が走らなかったり。しょうがないから回収しようと竿を起こそうとしても、二進も三進もいかなかったり。その繰り返し。終いには、仕掛けが最後の一つになってしまったので、船長の指示を破って手持ちに変えて、中りが出た瞬間に一気に合わせて、ようやく一尾を釣り上げたんです。
それで何キロぐらいあったの?


①小笠原で釣ったシマアジ
――写真だけ撮りました。一尾だけは持ち帰って良いって言われていましたけど、食べるわけじゃないし、長さを測ったら70㎝には届かなかったので、写真だけ撮ってリリースしました。だから、重さでいえば5㎏は超えていたとは思いますけど、正確にはわかりません。それで、ジギングの方ですけど、カンパチは釣れるんですよ。だけど、船長もカンパチだと当たり前すぎて見向きもしないんですよね。その日は結構、カンパチが釣れたんですよ。まぁ、5~6㎏のカンパチですけど、やり取りをそれなりに楽しみたいじゃないですか?そうすると、船長がもっとドラグを締めて一気に上げろって、楽しませてくれないんですよね。(笑)たぶん、小笠原では5~6㎏のカンパチなんて、子ども扱いなんでしょうけどね。そんな中で、シマアジが喰ったんですけど、私もカンパチのつもりでそれこそゴリ巻きしていたんですよね。そうしたら、なんか違うなって上がってきた姿を見て思ったんですけど、いきなり船長が飛び出て来て横からタモをもってシマアジだ!シマアジだ!慎重にやれ!って。(笑)
(笑)

――シマアジだけには強烈に反応して。(笑)カンパチとはえらい違いで。(笑)
ヒレナガなのかな?

――そうです、ヒレナガが中心です。本カンパもいますけど。

だからだな。

――だけど、いきなりタモ持ってシマアジだって、それまではもたもたすんなー、一気に上げろー!っていっていた人が、慎重にやれ!ってなっちゃうんですよ。(笑)そのシマアジは70㎝・4㎏ぐらいだったと思いますけどね。そのシマアジだけはリリースせずに持ち帰りましたけど。あの船長の対応には笑った。
小笠原にもいるんだ、シマアジは。

――結構、釣れるみたいです。小笠原でも高級魚みたいですね。
みんなそっちに行っちゃっているんじゃないの?(笑)大島のやつが。(笑)


②小笠原で釣ったクチジロ
――小笠原はまた、魚の種類が違いますからね。クチジロやっていた時の外道がカラフルでしたから。こっちでいうササヨも色が熱帯魚みたいでした。
食べるっていうと、やっぱり違うっていうよね。神津島あたりから違って来るっていうからね。カンパチでも違って来るっていうからね。

――同じ魚でも、生息域でブランド魚になったりで、魚も大変ですね。それにしても、大型のシマアジを狙って赤岩に通うっていうのは大変ですからね。それこそ休みの日だけ行って釣れるっていうような甘い魚じゃないですからね。僕なんかには、ジャミシマしか相手にしてくれないですよ。
だけ、狙うっていったらね。でも、釣りが好きで赤岩に行っていれば、悪いことないもんね。何かあるからね。(笑)

アオリイカ釣りについて

――エサ釣りにしろ、ルアーにしろ、本命だけじゃなく外道でも楽しめますからね。エギング好きの人には申し訳ないですけど、外道がいないですからね。タコぐらいしか。エギングで思い出しましたけど、アオリイカはやっていたんですか?
昔はやっていたよ。

――それはどういうやり方で?

あの、竹角、俺らのときは竹角で。

――竹角?
ルアー、ルアー。今でいうルアーだね。投げてそーっと巻いて来るっていう。だから、エギだよね。竹でできた。

――竹で作るんですか?

うん。孟宗竹の根っこのところの青い部分を使って。

――へぇー。竹で作るんですか。今のエギみたいな形にして?
うん、イカ角みたいな。エサくっつけて。

――アっ、エサも付けるんですか?それは何を?
切り身。サメとかウツボとか。俺らはシイラなんかを冷凍して使っていたけど。それでスーッとやっていると来るよ、ゴーンて。もう、全然止まんないから、そのまま持ってかれちゃうのもいるし。デカかったよ。4㎏ぐらいのもいるし。

――僕も大島で一度だけ4㎏超えのアオリイカを見ましたけど、デカいですよね。

デッカイよー。ザラに釣れていたよね、4㎏台が。5㎏以上っていうのは記憶にないけど、4㎏台っていうのは多かったね。デカくなると、まん丸になって来るからね、細長いっていう感じじゃなくって。

――そうですね。まーるくなって来るっていう感じでしたね。エンペラ広げて。

ムツもデカいのが釣れたりしてさ。ビール瓶みたいなムツ。もう、エサ盗ってエサ盗ってさ、小っちゃいムツやっていてさ。それで、竿にちょっと変化が出た瞬間に合わせたら釣れてさ、何のことはないエサ盗りの犯人がビール瓶みたいなムツだった(笑)そこで合わせないと釣れないの。竿がちょっと入ったときに合わせないと、ギューっていっちゃうとエサを盗られちゃう。岡田の桟橋で。暗い中竿を置いてじーっと竿を見つめて。一日20尾ぐらい釣れて。魚屋さんに卸して。

――あのムツって美味いんですよね。
美味い。小っちゃくても美味いし。煮つけたり、焼いたりして。

――外道って、他にはどんなのが釣れました?魚釣りやっていて、外道っていうかおかずになるような魚っていうのは?
あとは、サビ(クロビシカマス)とかさ、岡田は今でも小っちゃいのは釣れるでしょ?

――そうですね。
俺らのときは、一番がアカイカで、その次がムツっていう感じだったね。アオリイカはよっぽどのことがなきゃ、やんなかったからね。

――アカイカは美味しいですもんね。まぁ、食味は人それぞれ好みがありますから、一概には言えませんけどね。
あの頃は、アカイカはやれば釣れたからね。アオリイカの方が釣れなかったから。

――しかも大きかったわけですしね。僕が島でアカイカを釣るようになってから、それこそタモを使わなきゃいけない大きさのやつは滅多にないですからね。それこそ、忘れた頃にやって来るっていう感じで、抜き上げようとすると重さで身切れしちゃって。それでも、パラソル級じゃないですからね。子どものパラソルぐらいで。
それこそ、60㎝とか、70㎝とかだもんね。(笑)アカイカがこんなだもんね、俺らのときは。それぐらいないと、6~700gいかないから。中には、すごい太いのがいてそういうのは1㎏位いっちゃったりして。二杯掛かったりしたら、絶対抜けなかったから。

――下手にぬき上げようとすると、ゲソ(足?腕?)だけ残って来たりしますからね。
だけど、数釣れるから、それなりのやつは強引に抜いちゃったりしたけどさ。それでも、二杯掛かったら抜けない。

――アカイカ一杯の価値が、今とは違っていたんでしょうね。(笑)その頃は、どのぐらいの竿を使っていたんですか?
どうだったかな?確かボロンの3号竿ぐらい使っていたんじゃないかな?メーカーによっては、2号竿も使っていた気がするけど。

――ボロンというのはどういう?

カーボンよりもっと上の繊維だっていうことで出ていたんだけど、ボロン繊維。今はもうなくなっちゃったけどね。

――へぇー。そういう時代があったんだ。

うん。10万円ぐらいする竿だったけどね。カーボンで、ボロンで最後はケプラー。

――ケプラーっていうのは、あのケプラーですか?
だと思うよ。だと思う。竿でもケプラーっていうのがあった。

――それじゃあ、道具もかなり進歩しているっていうことを身を持って体験しているっていうことですね?
(笑)そうだねぇー。

――それでは、お話はこれぐらいですかね?
そうだね。こういうことがあったっていうことを、残してもらった方が良いから。資料も持って帰ってもらって構わないから。

――はい。ありがとうございます。

近況について

店の方は落ち着きました?

――まぁー、落ち着いてきたって言えば落ち着いてきてはいますけどねー。

結局、壊すことにしたの?

――まだ、そこは全然クリアできていないっていうか、大金沢の堆積工から下流域をどうするかっていうことが決まっていないんですよ。
決まってないんだ。

――土砂災害対策検討委員会っていうところが出した報告案だと、その流路については殆んど手を付けないっていう内容になっているんですけど、それだと沿線の住民が、
えー、あれ手を付けないって?

――うん、それだと沿線の住民が安心できないので、何とかして欲しいっていう声が出ているんですよね。だから、何とか拡張するなりして欲しいっていう方向で、都に要望していくっていうことになると思うので、そうなると沿線の住民にとっては大きな問題になって来るので。
あそこをあのママっちゅうわけにはいかないよね?あんだけのことが起きてさあー。

――報告案が言っているのは、尾根が低かったので予想外に土砂が神達地区に流れ込んで被害を大きくしたっていうことなんですね。だから、導流堤っていうのを作って流れ出る土砂を堆積工に溜めるっていうんですが、それだと住民は、全然安心できないじゃないですか。だから、僕らとしてはあそこを何とかしてもらって少しでも安心して住めるようにしてもらいたいっていうことなんですよ。
ねぇー、初めてじゃないからねぇー、あそこで災害が起こったのは。

――そうそう、そうなんですよ。説明では100年に一度の雨だからっていうんですけど、狩野川台風だって55年前のことだから100年以内に起こっているじゃないかって話になっちゃうんで、とにかくそういうことが決まらないと店をどうこうするっていう話にはならないんですよね。
どっちにしても、俺が思うにはあの店は少しお金をかけて直して、前のように再開した方が利口だと思うよ。あのまま壊しちゃうとか、どこかへ移転しちゃうとかってしないでさ。人が住むのは別にして、店舗は元のところで最低限のお金だけ使ってさ、もう一回やった方が俺は利口だと思うよ。だって、長丁場になりそうじゃん、そうなると自分たちが大変になるだけだからさ。結局それだけやっていれば後から補償もされるし、あそこでやんなかったら二束三文になっちゃうし。

――まあ、当面は今の仮設店舗の規模でやって行くことになるとは思うんですけど。

向こう側も、もう一回店にしちゃってさ。

――(笑)
絶対、奥さんを説得した方が良いって。どっちにしたって、お金なんかそんなに掛かんないし、人が住むっていうなら別だけど。住むのはこっち側に住む方が安全だからね。店はさ、あっち側も直して、そんなにお金は掛かんないと思うし。

――そこが難しいとこなんですよね。店舗を広げるってなると、それなりに商品も増やさなきゃなんないし、被災で失った商品も結構、打撃は打撃なんですよね。だから、色んな意味で方針を出してほしいんですよね。都なり、国なり、町なりに。ここはこうするからっていうことを決めてもらわないと、動きようがないんですよ。お金を掛けて新しくやって、移転とかっていう話になったら、ちゃんと後で補償されるから大丈夫だっていう人もいるんだけど、そこはそうそう当てにならないんですよ。
今ある店をきれいにするのに、いくらも掛かんないから。商品も徐々に増やしていけば良いんだし。

――まぁ、人が住むっていう感覚にはもうならないんで。
人が住むっていうことになると、またこれはお金が掛かるから。どうしたって段々商品だって増えてくるでしょ?初めはこれぐらいで良いやって、これで何とかやろうって言ってもだんだん増えてくると思うよ。(笑)

――今回も、ゴールデンウイークで、コマセが足りるかどうか冷や汗ものでしたからね。被災前は一坪の冷凍庫があったので問題なかったんですけど、繁忙期のたびにドキドキするのもなんですから、もう一台ストッカーをって考えたりはしますけど。そうやって、現実にドンドン元の店の方に広がってはいるんですけどね。まぁ、あせらずにやっていきます。
頑張って下さい

――はい。本日は長い時間、貴重なお話をしていただいてありがとうございます。

*丸市コメント*
インタビューを終えて、知らないことが沢山あったということを改めて実感することができました。どれもこれも、興味深い話ばかりで、感動的でした。
これで、当初の目的である、島の磯釣りの歴史の一端は、明らかにすることができたのではないかと思います。
濱口さんの快諾がなければ、この企画は成り立ちませんでした。心より感謝します。本当にありがとうございます。
長時間、お話をうかがって感じたことは、濱口さんのおおらかなそのお人柄でした。釣りの話をされるときの本当に楽しそうな笑顔に、私は魅了されてしまいました。私も、濱口さんのように釣りを心から楽しんでいけるようになりたいと思います。
(注):復興計画については、インタビュー当時に明らかになっていた計画について述べています。現在の復興計画はインタビュー当時とは変わっています。